Blog | 2026年7月9日
SlackのメンタルヘルスをAIで診断してはいけない理由|「できる」と「やっていい」は違う
「AIが社員のメンタルを診断できる」。あるセミナーでその事例が紹介され、会場は沸きました。でも私は、そこで手が止まりました。技術的に“できる”ことと、“やっていい”ことは違う——中小企業の経営者にこそ知ってほしい、AI活用の一線の話です。
先日、バックオフィス向けのAIセミナーで、こんな事例が紹介されました。「Slackの会話ログから、AIが従業員のメンタルヘルスを診断する。人事評価にも使える」。会場には「すごい」という空気が流れました。私は、そこで手が止まりました。
否定したいのは、技術ではありません。その使い方です。なぜ「できるけれど、やってはいけない」のか。中小企業の経営者が判断を誤らないために、順を追って説明します。
技術的には“できる”。それは、否定しません
生成AIは、文章から感情の傾向を推定します。投稿頻度の低下、返信の遅れ、言葉づかいの変化——これらを組み合わせれば、それらしいスコアは出ます。技術としては本物です。問題は、それをやっていいのか、という一点です。
やってはいけない——制度が、そう設計されている
日本には、労働安全衛生法第66条の10に基づくストレスチェック制度があります。この制度の設計思想を見ると、なぜダメなのかがはっきりします。
- 検査の実施者には守秘義務が課される
- 検査結果は、本人の同意なく事業者に提供してはならない
- 人事権を持つ者が、情報の取扱いに不適切に関与しない仕組みが必須
- 個人単位ではなく、原則10人以上の集団単位で分析する(目的は職場改善=一次予防)
つまり制度は、「人事権を持つ人間を、個人のメンタル情報から意図的に遠ざける」ように作られています。理由は単純です。メンタルの状態が人事評価に使われた瞬間、誰も正直に答えなくなるからです。SlackログをAIに読ませて個人を診断し、評価に使うのは、この設計思想を真っ向から壊す行為です。
法的リスク:心の情報は「要配慮個人情報」
心身の健康に関する情報は、個人情報保護法上の「要配慮個人情報」にあたります。原則として、本人の同意なく取得してはいけません。本人の知らないところでSlackログを解析して健康状態を推定すれば、この取得のルールに抵触するおそれがあります。
さらに怖いのは、経営者が“知ってしまう”ことそのものです。ある社員の不調をAI経由で「知り得た」とされれば、その後の対応いかんで、かえって法的な責任を問われる立場になりかねません。良かれと思った可視化が、リスクの入り口になるのです。
数字が語る、無視できない現実
だからといって、メンタルヘルスを放置していいわけではありません。厚生労働省によると、令和6年度の精神障害による労災認定件数は1,055件で、初めて1,000件を超え、過去最多となりました。原因のトップはパワーハラスメントです。
制度も動いています。2025年5月14日に公布された改正労働安全衛生法により、これまで努力義務だった従業員50人未満の事業場にもストレスチェックが義務化されます(施行は2028年4月1日の方針)。中小企業にとっても、もはや他人事ではありません。だからこそ、順番と使い方を間違えてはいけないのです。
※本記事は一般的な制度の解説です。個別の運用や法的判断については、産業医・社会保険労務士・弁護士など専門家にご相談ください。
では、AIをどう使えばいいのか
やってはいけないことの裏返しが、正しい使い方です。
| やってはいけない | やるべき |
|---|---|
| 個人のSlackログを人事が読む | 集団単位(10人以上)で傾向を見る |
| AIの推定結果を人事評価に使う | 職場環境の改善“だけ”に使う |
| 本人の知らないところで診断する | 結果を本人に返し、本人が活かす |
| AIに「診断」させる | AIに「気づきのきっかけ」を作らせる |
たとえば、匿名アンケートの自由記述をAIに整理させ、「職場のどこに負荷が集中しているか」をチーム単位で把握する。個人を裁くためではなく、環境を直すために使う。同じAIでも、向ける方向が違えば、道具の意味はまるで変わります。
信頼を壊すAI活用は、定着しない
人の心を、本人の同意なくスコア化してはいけません。それは効率化ではなく、信頼の破壊です。そして——これは現場で何度も見てきたことですが——信頼が壊れた組織で、AI活用が定着したのを、私は一度も見たことがありません。監視の道具だと思われた瞬間、社員はAIから距離を取り、せっかくの投資は死蔵されます。
AI活用の本筋は、人を管理することではなく、人の負担を減らすことです。その考え方は「経理でAIは何ができる?と聞くうちは、AIは使えない」にも書きました。あわせてどうぞ。
使い方の“線引き”を、一緒に
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